ドラえもん50周年
藤子・F・不二雄先生の少年を主人公とした作品のひな形は、平凡でどこにでもいそう。力が強い友だち、それに媚びを売る腰巾着(裕福な家庭)、ヒロインを中心に特殊能力の持ち主が登場する。
登場から50年のドラえもん。主人公はもちろんのび太。なぜか長編になるとかっこよくなる。これは作者の設定であるから疑問やツッコミは不要である。かっこよく描いているものの、平凡でどこにでもいる設定は踏襲している。
50年も続けば価値観も変化する。0点を取りママに叱られる場面は、のび太が学習障害ではないかと真剣に論じるものもいる。
ジャイアンがコンピュータペンシル使っての不正がバレ父からぶん殴られた落ち、タイムふろしきではかあちゃんからチョップを食らう場面もある。のび太のママ、時にはパパが加わって正座させ長時間の叱責は、現在なら児童虐待として警察や児相が出動する事態となる。
児童虐待だから修正か封印してしまえと主張するのは過激すぎる。ドラえもんはギャグ漫画である。ギャグ漫画には誇張表現が要素としてある。
のび太の0点の連続は、適切な支援がなされる。その適切な支援がドラえもんでないかと思われる。それではのび太が本当に発達障害かといえば、意思疎通やひみつ道具を使いこなす、将来を描いた作品を見ると定常発達していると思われる。
のび太へやジャイアンへの叱責には、あからさまに親の腕力を行使した描写も見られない。なぜならば、暴力を振るうことが主目的とは違う。ただし、虐待被害者の想起はあるかも好き知れない。
ドラえもんの作品中に出ては消える論争は、しずちゃんのお風呂が《児童ポルノ》に当たるかである。のぞかれたものの被害と性犯罪を想起するものだと強く主張する例をSNS上で見た。
一部だけを取り上げ児童ポルノだと周囲に同意を求めても別の問題が生じる。しずちゃんのお風呂が主題の漫画かと言っても頑として聞かない、封印か削除したらいいのではと意見すると、これからの作品で表現しなければ良いと《のれんに腕押し》で論議は進まない。しずちゃんのお風呂は児童ポルノだという前提に立っているからである。
しずちゃんのお風呂や裸の表現に過剰反応しても、のび太やジャイアン、スネ夫の性器つき全裸表現には、しずちゃんよりも活発でないと見える。アニメ版ではアングルを工夫している。女がダメで男はよしとも違う。
残念ながら、日本の公教育では性を扱うことが長年禁忌であったから、性へ向い方、性差による特長や発達が疎かにされてきた。情報は性産業の情報から、ネットには性行動を扱った漫画作品に溢れている。マニア向けと思われた男性同性愛ものは《ボーイズ・ラブ》の分野が隆盛である。
ようやく児童ポルノは規制されたが、性犯罪を扱った作品は社会問題への提起をのぞいてこれも規制対象にしてもいいかと思う。なぜならば憲法の《公共の福祉》に反するから。改憲派が狙う《公の秩序》とは全くの異質。案外、公教育は日本国憲法の深い理解と教育はなかったと思われる。
ドラえもんが連載された頃の社会環境では、男の子が女の子に興味を持ってのドラえもんの描写は問題にもされていなかった。ポルノ作品ではない子ども向けギャグ漫画である。お風呂が主題でもないし、当時の風俗では問題なかった。
その表現が問題だ排除しろと他人の意見に同調する前に、これが公共の福祉に反する目的なのかよく吟味して、いたずらに騒ぎ立て過剰な表現規制にならないように気をつけなければならない。そのためには学習が必要である。